人生を通しての学びは身体に埋め込まれる

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ぶわーっと溢れる情報の海の中にいて、
自分が見ている世界は一体なんなのだろうと思うことがあります。

弁護士や医師の人たちと接し、
大学の教員や研究者と接していると、
その世界は変容する高学歴層を感じさせます。

知識の海の中で、荒波に揉まれたり、
侵食されているような感じを受けます。

先日まで、
日本社会教育学会で沖縄の名護に行ってきました。

ホテルの近くのお店に立ち寄って、
一人で寿司を頼んで、オリオンビールを飲んでいました。

その店の店長は、お客とは一言も話さず、
黙々と魚をさばき、寿司を握っていました。

沖縄の民謡がかかり、
賑わうお店の中で、ただ一人黙々と。

会話を交わすのは、
従業員とオーダーのやり取りくらいです。

カウンターに座って、
店長が寿司を黙々と握るのを見て、
美しい、と感じました。

一連の所作、動作に無駄がなく、
その身体に身についた学びが洗練されているのを感じたからです。

厳しい顔をして、
黙々と魚をさばき、寿司を握る。

そこには言葉はなかったのですが、
身体が多くのことを物語ってきました。

大学や研究の世界にいると、
理論や知識にたくさん触れることがありますが、
こういう身体や人生に埋め込まれてきた学びを美しいと感じる目を養いたいなと思うのです。

名もなき人々の人生の中に、
その身体の中に、
埋め込まれてきた学びがあります。

振る舞いには、積み重ねられてきた学びの痕跡があります。

<まとめ>
■書籍でもインターネット上でも情報が溢れている。
知識も溢れていて、発言ばかりが注目される。

■一方で、多くの人には、身体に埋め込まれた学びがある。
何も語らずとも、身体や振る舞いは多くを物語る。

■所作、振る舞い、行為、身のこなし、
人生を通しての学びが色濃く出るのは、そこであり、
そこでの学びの痕跡を観る目を養うことにも注意する必要がある。

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