挑発という教育的営み
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今日は、
第24回全学教育シンポジウム「京都大学の教育におけるニューノーマルを展望する」
に参加しました。
この状況下での京都大学の教育には、何が求められているのか、私たちがどこへ向かうのか、とても考えさせられるおもしろい内容でした。
その中で印象に残ったのが、山極壽一総長が話した内容でした。
おおよそ以下のような内容だったと思います。(正確でなくてすみません)
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教育の場は、学生と教員でつくるものである。
教員は学生を挑発し、学生は教員を挑発して、学びや教育になる。
昔、理学部のある先生が、教室に入ってきてから、黒板に向かって1時間以上、しゃべらずにただ数式を書くだけの授業をしていた。
学生はそれを見て、先生はこんな難しい数式に取り組んでいるのか、と一言も話さず、じっとそれを見ていた、という。
これは、教員による学生の挑発である。
そして、学生は、これが挑発であることをわからなければいけない。
挑発であることをわからなければ、学べない。
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というような内容でした。
ちょっと震えましたね。
今ではそういう講義や授業はないでしょうが、京都大学ではかつてそういう授業があったという話は、いろんな機会に聞きます。
教員の知的格闘をただ見せるだけ。
それに刺激を受けた学生が学ぶ。
これこそ、アクティブラーニングだと思います。
内側の深い部分で火がつき、自分もこういう知に挑みたい、この世界を探究したいと思わせるわけですからね。
山極先生が取り上げたキーワードは、「挑発」という言葉でしたが、これは言われてみればたしかにと思います。
受け取れないレベルの人からすると、
何も説明してくれない、
何も教えてくれない、
わかりにくい、
不親切だ、
となるわけですが、
受け取れるレベルの人からすれば、
乗り越えよう、
自分もそうなりたい、
自分もそこを目指そう、
やろう、
となります。
どうだ、できるか?
やってみろ。乗り越えてみろ。
という挑発は、教える側にとっても、学ぶ側にとっても、タフなやりとりになります。
師が弟子に自分を乗り越えてもらおう、というときもまた、ある種の挑発という営みがあるのではないかとも思います。
自分も若い頃に、
「種村、お前はこれから絶対バカになる。3年もすれば、仕事での力の抜き方を知るようになるし、うまく手抜きをするようになる。今はいいかもしれないが、本も読まなくなるだろうし、これから絶対バカになる」
と上司に言われたことがあります。
ほんと若かったので、
「絶対にそうはなりませんよ!あなたに僕の何がわかるんですか!」
なんて生意気に口答えしていました。
結局、あの一言がきっかけで、
本を読んだり、いろんな人との出会いを求めて外の世界へ出るようになり、今の自分があるなと思えます。
今にしてみれば、あれは「挑発」だったとわかりますし、すごくありがたいことだったということもわかります。
他にも、成れる会で自分にマーケティングを教えてくださった広岡勝時さんも、
講義の場で、自分はエネルギーをぶつけにいく、みなさんからのエネルギーがぶつかってくるのがわかるから、講師はそれを上回る必要がある、かかってこい、
ということを話していました。
そう言われていたので、僕が成れる会の1期で学んだ時、自分自身も本当に自分のすべてをぶつけにいく感じでマーケティングを学んでいました。
わかりますかね。
自分のすべてやエネルギーをぶつけにいって、マーケティングとマインドセットを学ぶ、って。
たたかうように学んでいました。
「挑発」と教育について、果たして自分は、学生を挑発しているのだろうか、と考えさせられます。
「挑発」されているか、とも考えます。
生半可な状態である限り、起こらないと思うんです。
これまでの経験からすると、高みを目指すときに生じるプロセスであり、こっから先へ行ってみろよ、というときにやることがあります。
のってきたり、ぶつかってきてくれないとおもしろくないのですが、教える側としても、学ぶ側としても、そういうやりとりを自分は求めているなとも感じました。
<まとめ>
■教育の場は、教育者が学習者を挑発し、学習者が教育者を挑発してできることがある。
■高みを目指すときには、お互いの限界に挑んだり、相手を乗り越えようとするプロセスがある。
■生半可な状態だと、挑発的な教育は生じにくい。相手の可能性を信じて挑まないと、生まれにくいのではないか。