産業とテクノロジーに絡め取られる自己啓発-『自己啓発の罠』-
書店にいけば、
自己啓発コーナーに、多くの書籍が並んでいる。
そして、次々に新しい本が登場しては、消えていく。
インターネット上でも、
自己啓発や自分磨きに関する情報は絶えない。
生き残るために、私たちは、
自己を高めなければならない。
自己実現のために、
自己啓発を行う。
それ自体は、決して悪いことではないし、
望ましいことである。
人格を磨くこと、徳を高めることについては、
古くから教育においても目指されてきたことであり、
生涯学習においても人間性を高めることが広く目指されてきた。
しかし、
自己啓発を取り巻く環境は、
巧妙に資本主義とテクノロジーに絡め取られ、
今となってはかつての人文主義的な自己啓発からは変質してきてしまっているのではないか。
本書で示されるは、
自己啓発をめぐる歴史、思想、社会の分析であり、
情報のシャワーを浴びせられるようでもあります。
キレッキレに批判していきます。
特に著者が強調しているのは、
テクノロジーによって管理、監視される自己啓発の問題です。
デバイスを用いれば、
・睡眠の量や質
・運動量
・学力
・覚醒の状態
・自分の関心や知識
など、様々なことをデータとして管理することができます。
そして、それは自己がデータに絡め取られていくことにもなります。
自己啓発が、ビジネスの対象となり、
それにまつわる産業が発展し、
自己を高めることができるし、高めなければならない、
という認識が広がり、
データで管理し(管理され!?)、新たなサービスを消費することになる。
この自己啓発に終わりはありません。
それではどうしたらよいのか。
ここで問題になるのは、
そもそも「自己」という捉え方であり、認識です。
自己はそうやって高めたり、啓発する対象ではない、
という著者の主張には、
注目する必要があります。
自己は独立したものでも、完全にコントロールできるものでもなく、
社会や周囲の人との関係性の中で捉えられる物語なのです。
それであるならば、
自己を取り出して問題にすることはできず、
社会との関係や、私たちという関係性の中で捉えていくものであり、
その「よい物語」をいかに紡ぐかというところにこそ注目すべきだといいます。
これは意外と盲点なのではないでしょうか。
さらに、
その「良い物語」を紡ぐためにテクノロジーを使える可能性もあるというのですが、この部分はちょっとまだ実感が持てませんでした。
自己啓発の奇妙さ、みなさんは感じたことありませんか?
"人々の自己啓発への努力から利益を上げるために、まず想起される産業は、出版やワークショップ、講習、セラピー、医療などだろう。これらはここ数十年間で急増してきた。資本主義経済が個人の身体や精神の「ニーズ」中心へと転換したこととも軌を一にしている。疲労し、落ち込み、不安もあり、精神的に空虚な労働者・消費者が、「ウェルネス」を提供するという新たな財・サービスの「獲物」とされるようになって既に久しい。(p.58)"