教育改革が、教育者の内面を抑圧していないか
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昨日は、教育の失敗は、教育者の内面の失敗である、ということを書きました。
教育者からするとちょっときついテーマで、いやいや、そんなことはないだろう、と思われると思います。
これに関しては、僕もそう思います(笑)
あらゆる責任が教育者にあるわけではないため、すべてを教育者の内面の問題にすることが適切だとは思いません。
ただ、P.J.パーマーが、教育改革が教育者の内面を無視する形で進んでいることに対して批判することには賛成します。
教育力の向上でも、
教育の質保証でも、
学校の先生はけしからんから、
教材やカリキュラムや教え方を整えていこうとして、様々な制度を作ったり、教材を工夫したり、教育者の評価制度を組み込んだりします。
しかし、そのような教育内容や制度の整備が標準化の方向で進む一方で、教育者の魂は疎外されていくことになります。
いつどこで誰が教えても同じように教えられるように質の保証が進むとき、何を教えるか、どう教えるかは画一化される傾向にあって、教育者の工夫や思いや熱意は軽視されていくことが多々あります。
よかれと思って制度面を整備していくのですが、現場はどんどん窮屈になるということがあります。
P.J.パーマーはこれを批判します。
教育者が学習者と深く向き合えるようにする方向でなければ、教育改革はうまくいかないだろう、ということです。
教育者がどう思っているか、
教育者の熱意が高まるか、
教育者が安心してありのままを表現できる環境になっているか、
それらを大切にせずに、やれ教育はダメだ、なっていない、変える必要があるとしてもうまくいかないのですね。
結局、現場の教育者が力を得られる方向でなければならないからです。
競争原理を教育に持ち込んだり、制度面だけ整えて仕事を増やしたり、教育者の評価を厳しくして教育者の不安を煽ったり、現場で教育に関わる人の内面を貧しくすることをするのは逆効果です。
どうやったらうまく教えられるかと問うより、どうやったら現場の教育者が力づけられるかを問うことの方が、はるかに効果的なんでしょうね。
<まとめ>
■教育改革や教育の質保証として、教育効果を高めようと制度の見直しや改善がなされるが、それが教育者の内面を抑圧することが多々みられる。
■教育者の思いや熱、工夫を促すもの、教育者が学習者と深い関係を築けるようにするもの、それを考えなければ、現場での教育はよくならない。
■どうやったら現場の教育者が力づけられるのか、安心して人間的に学習者と関われるようになれるのか、それを考えていく必要がある。