見ていないものは、わからない
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最近は、週末に娘とディズニーやアニメのDVDをいくつかレンタルしてきて、週末や平日の夜に一緒に観ています。
プリンセスが登場するような作品は、まあまあ観ました。
この前、DVDを借りてきた帰り道、3歳の娘が、
「パパ、これまで、アリエルに、ラプンツェルに、オーロラ姫に、白雪姫に、モアナに、美女と野獣に、アラジン観たなー。
ディズニーの映画、いっぱいあるなー。
あ、でも、観たことがあるものはわかるけど、観たことがないものはわからないなぁ」
と話しかけてきました。
思わず、
「おお!すごいことに気づいたね。
そうそう、観たことあるものはわかるけれど、観たことないものはわからないよな!」
と答えたのですが、深いなぁ、と思ってしまいました。
観たことがあるものはわかるけれども、観たことがないものはわからない。
娘の話を聴いていて、たぶん、彼女は、レンタル店の棚にたくさん並んだDVDを思い浮かべていたのでしょう。
その棚にどんな作品があるのか、観たことがあるものは名前を挙げることができるけれども、観たことがないものは名前を挙げることが難しいでしょう。
観たことがないから。
そして、観たことがあるものについては、その作品の内容を思い出して話すこともできますが、観たことがないものについては話すことができないでしょう。
わからないから。
観たことがあるとは、リストアップすることができるし、内容を語ることもできます。
おそらく、そういう意味でわかると語っていたのでしょう。
娘のその話から、認識するとはどういうことかに、思考が結びついて、深いことを言うなぁ、と思ってしまいました。
図書館に膨大に並んだ本や知をイメージしたとき、自分が見たことがあるものについては、その分野やその本の存在をリストアップすることができますし、本の内容を語ることもできるかもしれません。
しかし、見たことがなければ、そんな領域やそんな本があることも知らないですし、ましてや内容を語ることもできません。
経験でも同じことが言えます。
経験したことがあればわかりますが、経験したことがなければわかりません。
そして、見たり、経験できるものというのは、膨大の知の中のほんの一部のものにすぎません。
つまり、わかったものよりも、ずっと多くのわからないものが存在していることになります。
そして、見ていないものについては、存在を認識することがむずかしいです。
学びや経験というのは、シンプルにそういう側面があります。
観たことがあるものはわかるけれど、観たことがないものはわからない。
存在すら認識できない。
見たり、経験したりすることで、世界は広がり、つくられていくんですよね。
いろんなものを見て、いろんな経験をしたいものです。
<まとめ>
■見たことがあるものはわかるけれども、見たことがないものはわからない。
■わからないというのには、存在を認識できない、リストアップできない、というものと、存在は知っているけれどもそれについて語れない、というものがある。
■この世の知は、圧倒的にわからないことが多く、見たり、経験できることは限られている。見たり経験したりすることで、世界はどんどん広がる。